プロダクションノートプロダクションノート

千葉

3つのストーリーの最後のバトンを受け取るのは、洋平役の主演・渡辺謙たちが待ち受ける千葉編。 スタッフは東京編、沖縄編で死力を尽くしてきたあとだけに疲弊の色を見せているが、ここが正念場だ。
劇的要素の大きい他の2パートに比べ、千葉編はさざ波のように小さなドラマが積み上がっていく構成。 李監督は一人一人のキャラクターが洋平の娘・愛子の心の奥に近づいていくような撮影の方向性に面白味を感じていたという。 また愛子を演じる宮﨑あおいが、今までにない役に挑戦してくれたことで、いかに彼女がこれまで以上の“何か”をむき出しにしてくれるか―― それを千葉編のテーマとしていた。
9月25日、まずは新宿・歌舞伎町でのロケーションから千葉編がクランクイン。 実際に営業している風俗店で撮影し、受付にある女の子たちの写真の中に愛子の姿も交ざっている。 細身の宮﨑は原作のイメージに合わせて約7キロ体重を増やして臨んだ。 風俗嬢としての無理な仕事で、ボロボロに疲れ果て横たわっている愛子を、娘を捜して店に訪ねてきた父親の洋平が心配そうな顔で見つめる。 初日から重く辛いシーンの撮影だ。 その張りつめた撮影の一方、現場の空気を和らげていたのは渡辺の気さくさ。 李組の前作『許されざる者』で一緒に仕事をしたスタッフとの再会を喜び、初めて会うスタッフにもどんどん話しかける。 主演俳優は、皆の緊張をほぐしてくれるムードメーカーでもあった。
別日には愛子が洋平に連れられ、千葉・勝浦に向かうシーンの撮影へ。 実際に運行している列車内での撮影のため、時刻表に合わせて緻密なスケジュールを正確にこなさければならない。 絶対失敗できない数々のワンチャンスを、スタッフは抜群のチームワークを発揮して無事クリアしていった。

千葉での日常生活に戻った愛子はすっぴんに髪飾りをつけ、リラックスしたラフな格好でいつも出歩く。 彼女が暮らす漁港のシーンは、千葉県鴨川市にある天津小湊漁協で撮影。 田代役の松山ケンイチをはじめ、明日香役の池脇千鶴らはここからインする。 少し前から漁協で働き始めたという寡黙な田代が、無垢な愛子に出会い、お互い緩やかに惹かれ合っていく展開だ。 やがて水揚げ作業中の洋平のもとに、愛子が田代と一緒に暮らしたいと申し出る。 このシーンは朝6時から実際に作業を行っている漁師や漁協の方々の中にお邪魔して撮影。全体の撮影進行はこの日の水揚げに合わせたスケジュールを組んでいた。 本番は完全にライヴで行うため、フォークリフトに乗ってダンベを運ぶ役割の洋平を演じる渡辺は、朝5時から現場に入って練習と確認。 彼はこのシーンに備えて、事前にフォークリフトの免許を取得したという。
洋平の家は、勤め先の天津漁協から約150メートルの近所にある実際の住居を借りて撮影。畳の居間は丸いちゃぶ台のある、昭和の雰囲気が漂う和室だ。 役のうえでは親子関係のボタンの掛け違いから厳しい表情を見せることの多い洋平だが、演じる渡辺はいつも陽気で、周囲への気遣いも厚い。 宮﨑は渡辺の人柄に触れ、 「私はいつも現場で人と話すことはそんなに多くないんですけど、お父ちゃんとはたくさん話をしました。 “謙さん”と呼ぶと渡辺謙さんになっちゃうので、普段から“お父ちゃん”と勝手に呼ばせてもらっていました」と語る。 根底に流れる親子の情愛に沿うかのように、二人の関係も近づいていったようだ。
そんな中、愛子と田代の関係について真剣に考え始める洋平。 誠実そうだが、素性の知れない田代との心の探り合いは極めて繊細で難しいシーンだ。 ここは李監督と渡辺、田代役の松山の三人でじっくり話し合いを重ねてから芝居を固め、一つ一つのシーンや感情が丁寧に積み上げられていく。
愛子が田代と暮すことになるアパートは、千葉県勝浦市の海岸沿いにある『ライジングサンバックパッカーズ』(主にサーファー向けの宿泊施設)のマンション2階部分で撮影された。 李監督が千葉編のテーマにもしていた「宮崎あおいのむき出し」が最も芝居として大きく現れる局面もここで撮影がおこなわれた。 宮崎は髪が乱れても、よだれが垂れても、どんな無様な姿でも、ただひたすら身体いっぱいに泣き叫ぶ。 本番の間も李監督は「止まらない!」「もっと心の底から叫んで!」と極限まで追い込み、長い時間カメラを回し続ける。 壮絶な演出と芝居のバトル。 まさにエモーショナルな圧巻のワンシーンが生まれた。

千葉編と同時期に撮影されていたのが、犯人・山神の殺人事件を捜査している刑事たちのパート――事件編だ。 このメインとなる南条役のピエール瀧、北見役の三浦貴大は、同時進行している各パートを糊付けしていくように結ぶ役回りであり、全体から見たバランスを大切にする必要があった。
彼らが勤務する八王子警察署のシーンは、埼玉県の吉川市役所を借りて撮影。 この事件編でスタッフを驚かせたのは、捜査中に登場する山神を知る男・早川役の水澤紳吾の役作りだ。 別の傷害事件で逮捕されたという設定なのだが、彼の顔には無数の真新しい傷があった。それは特殊メイクなどではなく、この役のために自ら針金で顔を傷つけてきたのだという。 もちろん李監督からのオーダーではなく、水澤が自主的に行ったこと。役に合わせて陰気な雰囲気を身にまとい、一人で撮影隊に合流した彼は、撮影前から真に迫っていた。
また、八王子の住宅街で尾木夫婦殺害事件を引き起こした山神の回想シーンは、 千葉編に入る前のタイミングで撮影。 凄惨極まるこのシーンも、李監督が「居抜き」にこだわり、神奈川県内の実際のお宅を四日間借りて行われた。 ドアに殴り書きされた「怒」の血文字―― この衝撃のビジュアルは現場でも異様なムードを放っていた。 まるでそれを目にする者に、人間存在の闇を深く鋭く問いかけるような……。

10月15日。千葉編の最終日は、東京、沖縄同様、クライマックスへ向かう重要なシーンの撮影が行われた。 洋平がひとり自宅で愛子からの電話を受けるシーンだ。 電話口から聞こえる愛子の言葉。それに応える洋平。 二人の芝居と李相日の巧みな演出力が相待った、まさに心震える名シーンは、是非ともスクリーンでご覧いただきたい。 この撮影をもって千葉編はオールアップ。 難役を見事、やり終えた宮﨑は「李監督は飴とムチなので、たまに小さい飴をくれるんですけど、基本的には追い込まれていく感じ。 人生の中で一番濃厚な二週間でした」とその充実感を語った。
渡辺は 「李組は、監督が粘りたいことに徹底して付き合う現場だから。 それが苦役じゃなく、喜びに感じられる。 おそらく東京編も沖縄編もこういう思いをしてみんな乗り切ってきたんだよね。 皆さん、本当にお疲れ様でした!」 と俳優部を代表して温かい言葉を残してくれた。
こうして2ヶ月あまりの撮影はすべて終了。 「やるだけのことはやった」と語る李監督だが、 「まだ終わっていない」とも付け加える。 そう、ここから編集や音楽などの作業を経て完成、 そして公開してからも、『怒り』という映画はひとつの生き物として動いていくのだ。



【撮影】
8月8日 ~8月25日  東京編
8月29日~9月20日  沖縄編
9月25日~10月15日 千葉編